【128】 
松坂城本居神社伊勢寺岩内瑞巌寺松風   2007.07.26


 お昼、松坂での用件が1件終わった。あと、5時から多気町で1件、市内へ戻って6時30分からの会合である。4時間少々の時間があったので、市内と周辺を回ってみた。
 

 まずは、松坂城。成立過程や歴史については、本居宣長の人となりを含めて、『2005年秋 松坂城』に記しているのでここで繰り返すのはやめて、風景を眺めながら散策することにしよう。


         
@表門入り口に建つ「松坂城」の碑 →
   




 
@ 表門入り口に建つ「松坂城」の碑
 
A 郷土資料館
 B 本丸郭の石垣
 C 天守閣跡
 D 鈴屋遺蹟保存会正門
 E 鈴屋
 F 本居宣長記念館
 G 本居神社







 それでは追手口(表門)から、いざ出発…。
  




← 表門の坂を上がっていくと、すぐの右手に
 A「郷土資料館」がある。 




 
「郷土資料館」に
 展示されている、

 機織(はたおり)機→






 なぜ松阪城跡内にある郷土資料館に機織機が展示されているのかというと、江戸時代、松阪は「松阪木綿」と呼ばれた良質の職布を生産したからである。近郊の「機殿神社」に伝承されている御衣奉職行事からも、この地では機織が盛んであったことがうかがわれる。
 松阪商人は、江戸時代の前半から中期にかけて江戸へ進出して活躍した。江戸の町には伊勢屋の屋号を掲げる店がたくさんあったし、越後屋呉服店・三井両替店の三井高利、丹波屋次郎兵衛、小津屋清左衛門など、多くの高名な商人が松阪出身であった。その商品が「松坂木綿」である。
 松坂市の東部から多気郡明和町にかけては、伊勢神宮にかかわって、古代に大陸からの渡来人が住み着き、彼らは高い紡織の技術を持っていた。
近世になって一帯で綿の栽培が始まり、伝えられてきた機織の技術とあいまって、良質の木綿が生産されるようになったのである。
 「松阪木綿」は品質が良く、「松阪縞」と呼ばれた模様がもてはやされて、江戸を始め全国で売れ筋の商品であった。




← B本丸郭の石垣。城内には、各郭の石垣が
 多く現存している。


  











  
  
       
櫓の石垣の上から、郷土資料館を俯瞰 →
 

 

 C 松阪城は、蒲生氏郷の創建時、本丸天守台に三層の天守閣がそびえ、それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見等の櫓が配されていた。氏郷は会津へ転封となり、その後、服部采女正一忠(秀次事件に連座して切腹)、古田兵部少輔重勝(ここで江戸期となる)と城主が変わり、元和5(1619)年、紀州徳川家の領地となった。紀州藩松阪城代が置かれたが、天守閣は江戸初期(1644年)の台風で倒壊…。以後、再建されることはなかった。



 

 本丸跡を抜けて、城の南面に位置する隠居丸跡へと足を運んだ。ここには、「鈴屋(本居宣長の居宅)」が移設されている。

  


← 隠居丸への石段と門(鈴屋遺蹟保存会正門)D
 この門を入ると「桜松閣(鈴屋遺蹟保存会旧事
 務所)」と「鈴屋(本居宣長旧宅)」がある。


 
 










         門を入ると左手に大銀杏 →




 















← 門の右手(写真の正面)が
 「桜松閣」の玄関 





 宝暦13(1763)年、宣長は松阪日野町の旅館「新上屋」に宿泊中の賀茂真淵との対面を遂げる。この会見中、かねてより尊敬していた真淵に古事記研究の志を告げ、真淵もこれを激励するなど、二人の対話は夜の更けるのも忘れて続いたという。宣長の古事記研究への情熱に火が点された、後に「松阪の一夜」と称される出会いであった。同年末、宣長は真淵に入門している。

  


← 桜松閣の玄関。
「鈴屋」の坪ノ内



 
手前に続くのは「鈴屋」の塀である。

 
 
  

 
 
 
 宣長は、天明2(1782)年、53歳のときに2階の物置を改造し、四畳半の簡素な書斎をつくっている。この小部屋が「鈴屋」で、宣長は研究に疲れると36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を振って、その音を楽しんだという。
 のち、家屋全体を「鈴屋」Eと呼ぶようになった。


            
2階 書斎「鈴屋」への階段 →

 
 
 
← 城の裏門へ通じる木戸
 
 

 
 
石垣がキレイ…。
 この石垣の下を
 左へ降りれば
 裏門(搦め手)→

  

  
  

← 石段を降りていくと、裏門跡の横、希代(きたい)丸跡の石垣を背にして、「本居宣長記念館」Fがある。




  
館内に展示されて
  いる本居宣長像→






 宣長に教えを請うものは全国に散在し、東は陸奥の国から、西は日向の国まで、弟子は489人にものぼったという。


  
しきしまの 大和ごころを ひととわば
      
あさひににおう  やまざくらばな
 

 
宣長の奥墓は松阪市山室山にあるが、その墓は数本の山桜に囲まれている。
  


← 搦め手から見上げる、二の丸の高石垣




  この搦め手から出ると、道路を挟んだ向かい側に
 「本居神社」Gがある。

 






 本居神社は、明治4(1871)年、山室山の宣長
奥墓の横に祠を建てて祀ったのが初め。このころ
は「山室山神社」と称した。
 明治15(1882)年、殿町の急奉行所跡地(現在
の市役所地)に遷宮。さらに大正4(1915)年、
現在地へ遷宮し、昭和6年 社号を「本居神社」
と改称、平成7年 さらに「本居宣長の宮」と改
称している。
 国学者も通り宣長を祀ることから、学問の神様として信仰を集め、受験シーズンには多くの参拝者で賑わう。


← 殿社は切り妻平屋の質素さだ。
  学問一筋の本居宣長らしいというべきだろうか。
 
 
 
           絵馬の願文も学問一筋である ↓

 

 
    
『算数が得意になりますように』
           …なんて、思わず応援したくなる。  →


    この子は、高校合格のお礼に来たようだ。
     『津高合格ありがとうございました。これからも学業に
      はげみますので、よろしくお願いします。
      軽音楽部で成功しますように。歌手になれますように。
      100位以内の学力でありますように。』
     … この子、歌手になっただろうか。
       ちょっと 願い事が多すぎたかも…。     →
 
 
 
社務所では、「学業成就のお守りや絵馬」とともに、「知恵集めのくまで」なんてものも販売しているとか。




   同じ敷地内の「松阪神社」         →
    氏子組織などがしっかりしているのだろうか、
   鉄筋の社殿に青銅葺きの屋根と、こちらのほうは
   かなり立派である。





 お城をあとにして、松阪港を見に行った。

  

 松阪港は、セメントや砂・砂利などを積んだ大型貨物船が出入りする港で、中南勢の産業に大きな役割を果たしてきた。
 去年(平成18年)12月30日、中部国際空港を結ぶ高速船が就航した(片道2100円)。
  乗船場は切符売り場と待合室、小さな売店だけで、コーヒーでも飲もうかと思っていた章くんは残念…。
 




     車で海に落ちるといけないからだろうか、
    写真中央の看板には、赤字で「立入禁止」と
    大書してある。
     その横には車が並び、たくさんの人が釣り
    糸をたれていた。            →





 転じて、山を目指す。松阪市内から西へ車で15分ほど走ると、「伊勢寺」という地名の集落がある。昔は、伊勢の寺というほどの大きな寺があったのだろうか…。


 周辺に新しく通された道路を避けて、伊勢寺町を通る旧道を走ってみると、道端に方形の石積みの上に立つ古寺を見つけた。 





← 寺は石垣の上にある  
  
  



 正面に、人の背丈の2倍ほどもあろうかという巨大な石灯籠 →


 その横に寺の由来を記した案内板があった。
 表題は『伊勢寺(奈良時代)跡』とある。  






 内容は『…、7世紀の創建。平安時代にかけて寺域を拡大して、大規模な伽藍が整備されたと考えられる。…』と。


  
  
  
  

 やはり、古来から伊勢の寺と呼ばれる大寺があったのであり、それが地名の由来となったのだ。


 ただ、今日 訪れたこの寺は、最近に参拝する人もないかと思われる小寺であり、本堂の造作もそれほど手を入れていない質素さで、歴史のどこかに忘れられたようなたたずまいであった。

  
  


 さらに西へ向かい、伊勢山上の山ふところに入った。
  

← 松阪の市街が、眼下に広がる。
  
  





  


  
            伊勢自動車道を越える →

  





 鉢が峰と観音岳の山間いを流れる観音(岩内)川のほとりに立つ瑞巌寺を訪ねるためだが、やがてあたりは、ちょっとした深山の景色になってくる。観音川は境内の真ん中を流れ、背後には観音岳が迫る。付近は古くから密教の修行の場となっていて、神秘的な雰囲気が漂う。
  


  瑞巌寺への入り口。石垣に刳られた穴をくぐっていく→



鏡池と弁天堂 











← 入り口を抜けると、観音川の水をせき止めて作った鏡池、小高い山に三重の塔、伊勢湾を借景に弁天堂や数々の神仏がまつられる庭園などが、自然の地形を利用して配されているが、これらは観音様のお告げで造られたとか。

  


← 池の横の参道を上って、本堂へ向かう。

  
  











      
観音川にかかる橋は、凝った造り。
       橋の傍らに観音像が置かれていた。 →

 



 瑞巌寺の開基は弘法大師と伝えられ、元は真言宗の寺であったが、戦乱や大地震で荒廃していたのを、江戸中期に知恩院から来た門超上人という僧が復興し、以後、浄土宗の寺として栄えてきた。
 でも、近年の寂れようは ちょっと淋しい。章くん、実は小学校の遠足に、この寺を訪れている。樹木は整えられて、池には鯉が泳ぎ、確たる寺院であった記憶があるのだが…。


← 瑞巌寺横の参道。 ここも、石垣の間に刳られた
 坑道をくぐって、本堂前に出る。


 
 
            
瑞巌寺 本堂 →


 川の崖上に建てられた本堂内に仏さまの姿はなく、正面に丸い穴が開いている。よく見ると対岸の崖にお顔だけが浮き出ている仏さまが拝めるが、この仏さまこそ、寺が守る弘法大師作の十一面観音の姿…だというのだが、実はこの日、蜂の群れが本堂を守っていて、異形のもの(章くんのこと)が近づくのを阻んでいた。
 だから、章くん。観音様のお姿を拝んでいない。もう一度、出直すしかないなぁ。




 そろそろ5時近くなった。多気郡多気町で次の約束がある。



← 松阪から南へ伸びる 国道42号線。
 
 
 櫛田川を越えると間もなく、道の左右に大きなビルが立ち並ぶ。シャープ電気の多気工場だ。      →
 





 そして夕刻、6時30分。今日の会合は、愛宕町の季節料理「松風」。


   巨大な味噌樽を利用した「樽部屋」が名物 ↓

















   樽部屋は狭くて お二人様用…。この部屋の
  利用は、近日また 出直すことにしよう。





 参考  松阪観光協会ぶらり松阪路、 「本居宣長記念館HP」、 ようこそ宣長ワールドへ
     浄土宗寺院紹介

                             
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